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狭山丘陵
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周辺の歴史

狭山丘陵の歴史は古くは石器時代にさかのぼります。今でも沢山の遺跡が狭山丘陵、及びその周辺で発掘されており、1万年前にも人々がこの場所を生活の場としていた事がわかっています。

西武鉄道狭山線の下山口駅から数分のところには、平安時代から鎌倉時代にかけて武蔵国多摩郡村山郷(現在の入間川付近)に勢力のあった武士団、武蔵七党の村山党の一族、山口氏(家祖:山口家継)の居城となっていた山口城跡も存在しています。現在はサンキ所沢店となっていますが、その周辺には土塁と堀跡が残されています。裏手を流れる柳瀬川は、山口城の天然の堀の役割をしていたとの事です。

村山党は八国山緑地にある将軍塚で有名な新田義貞の倒幕軍に加わり、小手指原の戦いや分倍河原の戦いなど倒幕の原動力になっています。主な一族には金子氏、宮寺氏、山口氏、仙波氏などがおり、名字の地は入間市金子、入間市宮寺、川越市仙波、所沢市山口などとして現在も残っています。小手指原の戦いの舞台となった所沢市北野の小手指ケ原古戦場跡には、現在石碑が建てられています。

また狭山湖北側(当時は狭山湖のような湖もありません)には、山口高忠によって築城された根古屋城跡も存在しています。根古屋城は、戦乱の際に山口城から避難する山城として築城したと考えられています。
ただ、狭山湖周辺は東京都水道局管理の都有地となっており、水資源の保護地域として高いフェンスに囲まれているため、1983年以降一般人の立ち入りは禁止されています。そのため根古屋城遺構は本格的な調査が行われていません。山城であるため、狭山湖を作る際に水の中に沈んだ部分もあると考えられています。

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